溝口健二にまつわる人々・女優篇 溝口健二にまつわる人々・スタッフ篇
溝口健二にまつわる人々・女優篇
田中絹代の写真 田中絹代
1909年、山口県下関生まれ。4歳で習いはじめた筑前琵琶で琵琶少女歌劇の舞台に立つなどするうちに女優に憧れるようになる。24年松竹下加茂撮影所に入所し、『元禄女』でデビュー。27年『恥しい夢』、31年『マダムと女房』、33年『伊豆の踊子』などの、可憐さと親しみやすさでスターとなる。35年『春琴抄 お琴と佐助』で演技開眼した。38年『愛染かつら』は空前の大ヒットとなり、次々と続編が作られた。

溝口健二との運命的な出会い
40年、初めて溝口健二監督作品『浪花女』に出演、全15本ものコンビ作品を生み出す運命的な出会いとなった。戦後も木下恵介、小津安二郎監督らとの意欲的な作品に出演して2年連続毎日映画コンクール女優賞を受賞するほどの活躍をしていたが、49年に戦後初の日米親善芸術使節として渡米、帰国した時のアメリカ的洋装にサングラスや投げキッスがマスコミの激しいバッシングにあい、孤立する。失意のなか51年に成瀬巳喜男の『銀座化粧』、溝口健二の『お遊さま』に出演、そして52年、『西鶴一代女』で見事に返り咲く。53年、溝口とともに赴いたベネチア国際映画祭では、『雨月物語』がサンマルコ銀獅子賞獲得。
演技はますます円熟期を迎え、『山椒大夫』、『噂の女』(共に54年)、と溝口作品になくてはならない女優として日本映画史上に残る名コンビとなる。
溝口監督と田中絹代とのロマンスについては、当時のスタッフ他多数から証言が得られている。二人は結婚という形で結ばれることはなかったが、生み出された名作が今も輝き続けている。
溝口作品出演作
「浪花女」(1940)
「団十郎三代」(1944)
「宮本武蔵」(1944)
「必勝歌」(1945)
「女性の勝利」(1946)
「歌麿をめぐる五人の女」(1946)
「女優須磨子の恋」(1947)
「夜の女たち」(1948)
「わが恋は消えぬ」(1949)
「お遊さま」(1951)
「武蔵野夫人」(1951)
「西鶴一代女」(1952)
「雨月物語」(1953)
「山椒大夫」(1954)
京マチ子の写真 京マチ子
1924年大阪府生まれ。
大阪少女歌劇団を経て、49年大映と専属契約を結び、「最後に笑う男」で本格的にデビュー。恵まれた肢体と演技力でたちまちトップスターになる。
「羅生門」「地獄門」など出演作の中でも各国の映画祭で重要な賞を得たことから“グランプリ女優“の異名をとる。

3本の代表作に出演
溝口監督との出会いは、53年の「雨月物語」から遡ること9年、まだ少女歌劇団在団中に「団十郎三代」に出演したことから始まる。その後51年の「お遊さま」撮影時に太秦で再会、「雨月物語」「楊貴妃」「赤線地帯」に主演として迎えられるが、そのどれもが強烈な個性を放つ役柄であり、いずれも溝口作品の中でも重要な位置にある作品というのが興味深い。
溝口作品出演作
「団十郎三代」(44年)
「雨月物語」(53年)
「楊貴妃」(55年)
「赤線地帯」(56年)
若尾文子の写真 若尾文子
1933年11月8日、東京市生まれ。50年、長谷川一夫の主宰する新演伎座に入座。翌51年、長谷川の紹介で大映に第5期ニューフェイスとして入社する。52年『死の街を脱れて』でスクリーンデビューを飾る。以降、出演作を重ね人気女優としての地位を築く。

地のままの「祇園囃子」しごかれた「赤線地帯」
初めて溝口監督に起用されたのが、53年の「祇園囃子」だった。女優になってまだ経験も浅かった若尾に対し、溝口はあまり多くの注文を出さなかったという。そのせいか、スクリーン上の若尾は、苦労と努力で舞妓になっていく栄子の役柄を自らの姿に重ねるかのように、みずみずしく輝いている。いっぽうその3年後の「赤線地帯」では、ギリギリまでしぼりとられ、追い詰められながらの撮影だったという。「何よりもまず官能的であれ」と教えられ、しごかれた結果、たくましくも妖しい夜の女を見事に演じ上げた。
溝口作品出演作
「祇園囃子」(1953)
「赤線地帯」(1956)
香川京子の写真 香川京子
1931年、茨城県行方郡生まれ。49年、東京新聞社主催のニューフェイス・ノミネーションに応募、6000名の中から1人選ばれて合格した。同年6月に新東宝に入社。11月には『帰国』で映画デビュー。52年6月からフリーとなり、その後も、52年『稲妻』、53年『ひめゆりの塔』『東京物語』と次々と話題作に出演する。その素直な演技と清潔感で人気を集める。。

溝口健二監督との『山椒大夫』『近松物語』
54年、それまでの彼女の持ち味をそのまま生かす成瀬巳喜男監督とは対照的に、俳優を徹底的に鍛え上げることで有名だった溝口健二監督の作品には『山椒大夫』で初めて参加。弟の厨子王とともに母のもとから人買いにさらわれ、奴隷として10年を過ごしてのち自らの命を犠牲にして弟を逃がし、母と再会させる安寿を好演する。同年8月には、本作がヴェネチア映画祭に参加することとなり、日本代表団のひとりとして出席、サン・マルコ銀獅子賞を獲得して帰国する。帰国後は、溝口監督の次回作である『近松物語』(54年)に長谷川一夫と主役に起用される。本作で、彼女は持ち味だけでない、格調正しいきりりとした演技を監督に要求され、堂々たる本格的な悲劇のヒロインを演じた。主演二人の息も合った作品で、カンヌでは受賞を逸したものの、監督の厳しいスタイルが高く評価された作品となった。
溝口作品出演作
「山椒大夫」(1954)
「近松物語」(1954)
溝口健二にまつわる人々・スタッフ篇
依田氏の写真
中央奥が依田氏
依田義賢
1909年4月14日京都府生まれ。京都市立第二商卒業。一度は銀行に勤めるが退社。文芸の道に進むことを決心し、30年日活に入社。翌年、処女作「競馬と女房」を書く。36年「浪華悲歌」以来溝口監督と組み、多数の名作をうみだす。著書に「溝口健二の人と芸術」がある。

溝口監督との出会い
日活入社以来、病弱だったせいもあり、なかなか芽が出なかった依田を「浪華悲歌」で溝口が抜擢した。当時、明治ものが続き、新鮮な題材を求めていたため、新人を起用したのだった。それが功を奏し、依田がオリジナル・シナリオを書き、溝口と推敲した本作品は二人が予想した以上にヒットした。その後、依田は溝口作品のほとんど全作品に協力することになった。「雨月物語」では、当初、芸術性の強い依田の脚本が会社に認められず、一度は降りたこともあった。しかし、結果的に溝口は別の脚本では納得せず、再び依田を引き戻した。

溝口との仕事の進め方
依田の逸話に、溝口と二人で打ち合わせをするとき、おおよその方針を聞くと、依田は初めて聞いたにも関わらず3分間で、シナリオを完成させたという話がある。溝口が構想を話、そこから依田がストーリーをつくり、セリフを書くというのが二人のスタイルとなった。
現場でセリフに違和感があると、溝口はすぐに「依田を呼べ。」と言い、現場で黒板にセリフを書き、修正させた。スタッフの仕事には決して手出ししない溝口らしいやり方であった。それが、依田をはじめとするスタッフには、信頼と責任となり、緊張感のある現場をうみだしていた。
宮川氏の写真
左から二番目
溝口監督の横にいるのが宮川氏
宮川一夫
1908年2月25日京都府生まれ。京都実習商工卒業。26年京都日活撮影所に入り、現像技師、撮影技師を経て35年「お千代傘」で一本立ちする。稲垣浩、黒澤明、篠田正浩監督らとコンビを組み、数多くの名作を手掛け、撮影賞も数え切れない。海外でも極めて高い評価を受けており、アメリカ、イギリス、フランスでも特集上映が組まれている。

溝口監督との出会い
溝口とは晩年の作品で組んで、多くの名作を残した。二人が初めて組んだのは「お遊さま」で、当時、「羅生門」を撮り終えたばかりの宮川を抜擢しようとしたスタッフに対し、溝口は、若造と組むのは気が進まないと漏らしていた。しかし、「お遊さま」の後に大映で撮った「雨月物語」で宮川のスケジュールが合わないため別のキャメラマンを連れてこようとした大映に対し、溝口は、スケジュールをずらしてでも宮川と組みたいと希望した。宮川は「お遊さま」1作で、溝口に気に入られたのだ。

絵巻物のような映画
溝口は宮川に対し、常々、「絵巻物のように映画を撮りたい」と頻繁にもらしていた。その通り、宮川は溝口の長いワンカット撮影スタイルで、映画におけるキャメラの芸術性を遺憾なく実証した。特に、「雨月物語」の湖上のシーンでは、スモークの濃淡、流れ具合までも宮川が操っているかのような映像美を生み出し、高い評価を得ている。「お芝居が分かることがキャメラマンの第一の条件です」という宮川は、台本から読み取り、芝居を思い通りに表現できる技術に長けていた。決して、レンズをのぞかないことで有名な溝口は、カットについても細かく決めず、重要だと思うシーンの箇所に丸をつけるだけだった。宮川は台本の欄外に、カットの画を描き、画のつながりを記憶して様々なシーンで、監督に提案していた。後に、宮川は「セガレがオヤジにダダをこねるように喧嘩を吹っかけては困らしていました」といっている。そうして、この二人の名コンビから、「雨月物語」「近松物語」をはじめとする多くの作品がうまれた。
増村氏の写真 増村保造
1924年山梨県甲府市生まれ。47年東京大学法学部卒業後、大映の助監督募集に合格と同時に、東大文学部西洋哲学科に再入学し、学業と仕事を両立させ51年に卒業。52年にローマの映画センターに送った論文が合格し、イタリア国立映画実験センターに留学。溝口監督がヴェネチア映画祭に行った際、現地でアテンドをしたのが留学中の増村だった。

巨匠たちとの仕事
帰国してからの増村は、「楊貴妃」「新・平家物語」「赤線地帯」と溝口監督作品の助監督を務める。すでに巨匠と呼ばれていた溝口から信頼され、また市川崑の「処刑の部屋」「日本橋」「満員電車」の助監督を経て、57年、異例の抜擢で監督デビューを飾ることとなる。
溝口に関してはいくつか文章を寄せており、「本能の作家」「リアリズムの作家」など優れた溝口観として評価も高い。

監督としての増村
デビュー作「くちづけ」以降、大映専属として「巨人と玩具」、「兵隊やくざ」などを監督。特に若尾文子とは監督二作目の「青空娘」で初めてコンビを組み、「最高殊勲夫人」、「清作の妻」等20作品に及ぶ作品を生み出し名コンビと謳われた。その後フリーとなり映画のみならずテレビにも活動の場を広げ「赤い」シリーズや「スチュワーデス物語」などにも関わる。86年没。
なお本年は増村保造監督没後20年にあたり、8月、9月、10月の3ヶ月連続で傑作12作品をDVDリリース。
発売中
「黒の試走車(テストカー)」 「清作の妻」 「セックス・チェック 第二の性」
9月22日発売
「黒の超特急」 「黒の報告書」 「闇を横切れ」 「大悪党」 「好色一代男」 「華岡青洲の妻」
10月27日発売
「青空娘」 「最高殊勲夫人」 「氾濫」
各¥4,725(税込) 発売元:角川ヘラルド映画 販売元:角川エンタテインメント
DVD写真
「ある映画監督の生涯・溝口健二の記録」
DVD発売中
http://www.kadokawa-ent.co.jp/detail/AEBD-10050.html
新藤兼人
1912年広島県生まれ。
34年、新興キネマ京都撮影所の現像部に入社、その後美術部に転籍する。この頃から撮影台本を手本に自己流でシナリオを書き始める。

溝口健二との出会い
37年、溝口の監督する「愛怨峡」に美術助手として参加、初めて溝口演出にふれ、その気迫に驚き感銘する。41年、溝口が松竹で「元禄忠臣蔵」を撮ることになり、美術監督に起用された水谷浩に誘われ、新興在籍のまま建築監督として参加。溝口の徹底した時代考証のセットづくりに従い、過酷な現場を体験する。

溝口の厳しい言葉
その後、改めてシナリオの勉強をし直そうと決意し、溝口に師事、あるオリジナルを提出するが、「これはシナリオではありません、ストーリーです」という酷評を突きつけられる。これに奮起し、更に勉強を重ね、ついに43年国民映画脚本公選に当選を果たす。

ある映画監督の生涯・溝口健二の記録
溝口作品で新藤が脚本を務めたのは「女性の勝利」(46年)、「わが恋は燃えぬ」(49年、依田義賢との共同執筆)の2作品のみ。
溝口の死後、田中絹代、京マチ子、若尾文子、依田義賢、入江たか子、永田雅一、増村保造、宮川一夫他、溝口健二ゆかりの39人のキャスト・スタッフを徹底的にインタビューし、「ある映画監督の生涯・溝口健二の記録」というドキュメンタリー映画を75年に発表、この日本映画の巨大な遺産を余すところなく後世に伝える。
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